産湯


 自分にとって、生まれた時から水とのつながりが強い。生まれたのも雨の日、飲み水は清水。家の近くには、沢があり、それがすぐに大きな川に流れ込んでいた。これからの季節、五月闇には無数の蛍が乱舞し、カジカガエルの涼しい鳴き声とせせらぎを子守歌に寝起きしていたものである。
 川は、水底の小石まで一つ一つ見ることができ、本流に流れ込む北向きの川には、カワノリがよくとれた。夏になると、一日中といってよいほど川に入りっぱなしで過ごしていた。少し冷えると、水から上がり大きな岩に腹ばいになる。太陽の熱をため込んだ岩は、冷えた体を温めるのにちょうどよかった。また、川縁の水たまりは温泉のように暖まっていて、これに浸かっても体を温めることができたものだ。
 学校にプールという物はなかったので、皆、川で泳ぎを覚えた。流れに逆らえば、泳ぐ力もつく。疲れれば、流れに任せて下流の浅瀬に戻っていく。魚取りには、ヤスを使った。潜って岩陰に潜むヤマメやニジマスを突くのである。未だに、清流や淵を見ると飛び込みたくなる。はしけやし・・・はしけやしである。上の写真は現在の流れである。

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ちょっと前ですが・・・


ポコペン氏が子どもの頃に行われた駅伝大会の中継地です。ポコペン氏はここからラス前区間の2キロメートルちょっとを必死に走ったのです。因みにこの時ポコペンチームは第3位でした。
 

故郷の吊り橋です。ここは彼の「子連れオオカミ」の撮影も行われました。夏には、御輿をこの川でもむ、神社の例大祭も行われていました。ヤマメやニジマス、カジカなど、山の恵みいっぱいの川だったのですが・・・・今は湖底に沈みました。まさに、はしけやし!

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のどかなり


 

 
城址公園内にある「江戸彼岸桜」です。友人の森の父さんは、「大福桜」と勝手に命名して悦に入っているのですが・・・・。百数十年の樹齢ながらいよいよ盛んに花を咲かせ、葉を茂らせています。近くには片栗が桜のピンクをバックに花を咲かせていました。その横を、天気がよかったせいもあるでしょうが、ヤマカガシがそろそろと通りすぎていきました。のどかなり、のどかなりです。

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懐かしい


 

 たたなづくさんの、天狗への山行を拝見して、ずいぶん前に自分もアイゼンつけて登ったのを懐かしく思い出した。古いアルバムをめくってみると、入山から下山までの何枚かが見つかった。天気は上々で気分もよく、羽目外しも数枚あって、そちらはお蔵入りとなりました。あしからず。

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神が降り給いて成したるか

 紅梁にもいくつかあるが、自分の好きなのは「海老紅梁」である。本堂から向背に沿って、緩やかなカーブを見せながら向拝柱へと続くその姿は、何ともいえない。
 ”どの紅梁も、彫り物や彩色で何かしらの装飾がなされているが、上の写真は秩父札所三番にある紅梁である。彫りも彫ったり、中までえぐり取られ躍動する竜が見事に彫り上げられている”と、素人の自分勝手な言であるが、思いこみも幸せのうち・・・・だろう。興味のある方は見に行ってください。
なお、近くには、旨い蕎麦家「奥の細道」「樫」「はないかだ」「伸平」等がありますので、是非立ち寄ってみましょう。

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あっちでもこっちでも

名にし負う「三十槌の氷柱」です。
雪の降る氷点下の中、観光客など来ないだろうと思いきや。何の何の。中には、愛犬同伴の家族もおり、車のナンバーも、埼玉県内は言うに及ばず神奈川、千葉、東京、群馬・・・・と関東一円からいらっしゃっているのを見ると・・・・。

 この2つの氷柱が「三十槌」のそれと大きく違うのは、三十槌の物は自然の造形であるが、上の2つは沢水をホースで引いてきて放水することで造り上げた人工の氷柱である。
 自然でないとはいえ、この凍えるような寒さの中で、人々を喜ばせようと懸命に水をまいている姿を思い浮かべると「ありがとうございます。」「おつかれさまです。」と声をかけたい。

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尻に敷く

尻に敷かれて?十年
 岩の上に、どっしりを腰を下ろしているかのように見える。自然の造形はおもしろい。元は、スリムな体型だったのだろうか、それとも元から安産型なのだろうか・・・・。岩にしてみれば、年々大きく重くなってくるこの居敷、もう半ば諦めていて、ともに苔の生すまでと、運命を受け入れているのかも知れない。

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暮らしと祈り


獅子舞

 日々の生活と密着していたものに、唄とともに祭りがある。ともに、仕事や、作業の辛さを和らげたり、協力の一助であったり、やり遂げた時の充実感や開放感、あるいは労い、嬉しさの表現でもある。又、これから始まる新しい生活の無病息災と安泰を祈る意味もある。ここの獅子舞は、これに当たる。
 ここの獅子舞は、獅子が真剣をくわえて激しく踊りながら、お堂を回る。祈願する人々は舞の後について同様に回るのである。親に連れてこられて、始めて見る大きな獅子頭をつけて刀をくわえ勇壮に舞う獅子に、思わず親の体にしがみつきながら、上目遣いに獅子の姿を追っているのも微笑ましい。

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穿つ生命力


握りつぶす

 褶曲した大きな岩に、一つの種が舞い降り。実生から長い年月をかけて、栄養のない岩の端から谷から望む狭い高い空に向かって幹や枝を伸ばし続ける。
 根は岩に潜り込めず、辛うじてできた小さな割れ目を手がかり(根がかり?)に、いつかは肥沃な大地に根が張れることを夢見ながらできる限り根を張ってきた。その姿に悲しくもうれしくも、又恥ずかしく力付けられもする。思わずその根の一つに手を触れながら声をかけてしまった。
 「はっ!」として我に返り周囲を見回して、絶え間ない沢の流れの音だけの中にいる自分に安心したものである。

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富士遠望


車山からの富士

 職場の先輩には、毎年のように霊峰富士に登頂するという方がいらっしゃルのですが、自分は、未だに五合目までしか行ったことがありません。いつもバスや列車や車の窓越しから、または、富士の見える山頂や峠あるいは視界の開けた林道の途中等々からの、文字通りの遠望です。
 今までの山行から、遠目に見る山はあこがれをもたらします。そして取り付いてみると、言わずもがなの辛さもありますが、それを払拭するくらいの、自然の楽しさや美しさ、歩んだことによる達成感を与えてくれました。最近は、山行から少し遠ざかってしまいました。ご夫婦でよく山行なさる知り合いの方々をみて、若いうちにもっと登っておきたかったと思うこと頻りです。

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